日本刀から生まれた言葉をご紹介します。
日本刀を握る柄(つか)に目貫と呼ばれる装飾された金具がついているがここから『目貫通り=人通りの多い繁華街』という言葉が生まれた。
手を保護する鐔(つば)からは『鐔ぜり合い=互いに激しく競り合う』が柄と鐔の間に挟まれている切羽(せっぱ)からは『切羽詰まる=土壇場に追い詰められる』が。刀剣は使用後に鞘にしまうのだが係争が解決したときに『鞘に納まった』という。
この他
『焼きを入れる=刺激的に気合を入れる』
『反りが合わない=気心が合わない』
『鎬(しのぎ)を削る=相互に激しく競い合う』『伝家の宝刀=とっておきの物』
『身から出た錆=自分の悪行から起こった災禍』『真剣勝負=命がけで戦う』『懐刀=極秘計画をあずかる近臣』『相槌を打つ=相手のペースに調子を合わせる』
など枚挙にいとまがないほどである。
武家社会で使われていた言葉も、現代社会でも何等の抵抗もなく、疑問もされずに使われている。
『一騎討ち=敵味方相対で戦う』『馬が合う=意気投合する』
『裏切り者=約束・信義に反する行為を為す者』
『自腹を切る=自分で負担する必要が無い中であえて負担すること』
『単刀直入=直接問題の要点に入ること』
『土壇場=進退極まった場面』『横槍を入れる=横合いから第三者が口を入れること』『的を射る=物事の肝心点を確実にとらえる』
『抜き差しならない=身動き出来ない・のっぴきならない』『折り紙つき=鑑定保証付の確かな物』
などで限りなく幅広い言葉が今も使われている。
徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年から大政奉還された1867年までの264年間、武家として守るべき義務を定めた武家諸法度(1615年)の制定など、民衆の指導的立場に立てるよう秩序の維持を図り、厳しく監察した。また、各地に藩校や寺子屋を開設し、孔子を祖とする儒学の教えを商人や農民にも学ばせた。こうした永年の日本独特の仕組みが文盲率を減らし、生活水準や思想についても極端な格差を生むことのない、民族国家が形成されていったと言えるであろう。
日本刀の歴史は1000年余ですが、初期の形態は真っ直ぐな刀でした。 銃や弓矢、槍などと同様、刀は自分の身を守り、敵を倒すための武器でした。
しかし、すべての刀が武器だったわけではありません。
正倉院にある刀剣には黄金装飾や金銀細工を施され、金具には水晶玉を嵌入し、鞘を黒漆で塗ってあるものも見られるそうです。
こうした刀剣は、貴族や高官などの特権階級の人々の佩用品だったと思われます。
本格的に日本刀が造られ始めた鎌倉期においては、戦場へ持ち込む刀と贈答品や恩賞として下賜する刀とは区別されてきました。
桃山時代から江戸時代にかけては、美しく外装が施された日本刀は輸出品目のトップにランクされたそうです。
戦後、日本刀は古来より伝承されてきた技術から生まれた文化財として、また、美術工芸品として誰でも所持できるようになりました。
平安期には直刀から弯刀(反りのある刀)へと形状が変化していきます。
平安期から鎌倉、南北朝、室町、桃山、江戸、幕末へと、姿形の変遷は主に戦闘方法の違いによるものと考えられています。
日本刀の鍛錬技法は大陸から伝授された砂鉄を素材とした鉄の文化ですが、世界に類を見ないものでしょう。
度重なる戦闘でも耐えられる強度を高める技法を基礎に、日本刀製作は日本各地に広まっていった。刀剣の世界では主に五ヶ伝としている。
鎌倉を中心とした相州伝、奈良の大和伝、岡山の備前伝、京都の山城伝、岐阜の美濃伝で、『正宗』を筆頭に各地で名工が輩出された。
砂鉄と木炭を交互に炉の中に繰り返し入れ、鞴で風を送りながら3日3晩燃やし続けると、溶けた砂鉄が炉の底に溜まってくる。これが刀の材料になる玉鋼(鉄)です。
これを薄く延ばして小割にする。小割した鉄を積み重ね、およそ1300度に熱せられた炭火の中で赤めて、叩きながら鍛接する。鍛接された鉄の塊を延ばし、二つに折り曲げて鍛接、また延ばして折り曲げて鍛接と20回ほど繰り返す。
鉄の層は約100万層に及ぶ。こうして鍛えられた鉄を刀の形に成型していく。
成型した鉄の表面に刃紋を入れるため、粘土と炭と砥石の粉を混ぜた土を塗る。
刃になる部分は薄く塗り、800度に熱せられた炭火の中で赤め、一気に水の中にいれることで鉄の強度は高められ、刃紋が表
れ反りが生まれる。
こうして刀匠(鍛冶屋)の手によって出来上がった日本刀は、研磨師によって鏡のように研磨され、鞘師によって白鞘に納められる。
拵えといって、金銀や漆などで外装が施された鞘は、また多くの職人の手によって作られる。
また、現在日本刀は美術品として取り扱われているので、刀匠は最寄の教育委員会に申請して登録証の発行を受ける。登録された刀は所有者の名義の変更届けによって、誰でも自由に所持して鑑賞することができます。